2024年2月号 | ||||||||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.244 |
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あげたおにぎり あげられなかったおにぎり ~所沢市「平和の語り部」の思い~(その2) |
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あげたおにぎり 昭和19(1944)年8月になると大都市の小学生が学校単位で農村に集団疎開する学童疎開が始まり、小学5年生だった弟の孝次と3年生だった武は学童疎開で新潟県岩船郡関川村の高瀬温泉の旅館に疎開していました。翌年の2月22日には敵機が低空飛行をして当時、私たちが住んでいた葛飾区金町にも焼夷弾を落として行き、機銃掃射を浴びせて来て、私たち一家は死の恐怖におびえました。この日を機に、母は「これ以上子どもたちに犠牲を強いたくない」と父に疎開を強く主張。杉本建具店の仕事も順調だったようで現金もかなり持っていた父は、仕事が気になって、東京を離れることを渋っていましたが、父もさすがに同意しました。しかし疎開先といっても、父の実家は四日市、母の実家は鎌倉と、親せきの家はいずれも太平洋側です。敵は太平洋側から攻めてきましたから、どちらに疎開しても危険です。そこで「少しでも安全な日本海側へ逃げよう」ということになりました。 弟たちを除く家族6人で上野駅に向かいました。仕事の道具や所帯道具は東京に置いたまま、身の回りの衣服だけを手にした逃避行でした。日本海側といっても、住んだことも、身近な親せき、知り合いもなく、行く宛は全くありません。新潟県の長岡駅近くの信越線の駅の近くに、母の弟の嫁の実家があり、コメ農家をやっていましたが、かなりの遠縁ですし、うちとの付き合いはまったくありません。でも、とにかくそこに行ってみるしかありません。金町の家に残っていたおコメを私が焚いて、人数分の6個のおにぎりにして、歩いて上野駅に向かいました。 上野駅は私たちのように空襲から逃れようとする人たちで大混雑していました。「ともかく乗れる列車に乗ろう」といって並び、やっとの思いで新潟・長岡行きの列車に乗ることが出来ました。すると私たちの席の脇に、ボロボロの服を着た小学校1年生くらいの男の子が、泣きながら立っていました。父が声をかけたら「目黒(東京)から来た」と言い、「目黒で空襲に逢い、お母さんが行方不明になってしまった。お父さんは出征していない」と言います。 当時の小学生は、制服の胸に名前や住所と血液型、緊急連絡先が書かれた白地の布製名札を縫い付けていました。この子の胸にも、緊急連絡先として、富山の親せきの住所と氏名が書かれてありました。そこの家を訪ねたらいい、と誰かに聞いたのでしょう。男の子は「富山の叔父さんの家を訪ねようと思っている」と話しました。 富山駅に行くには長岡駅で北陸本線に乗り換える必要があります。私たちが行こうとしている その後あの子がどうなったのか、今も気になります。無事、富山の叔父さんやご両親に会えていればいいのですが。 あげられなかったおにぎり 遠縁のお宅はコメ農家でした。遠縁の親せきとはいえ、顔も知らない私たちが突然押しかけ、「少しの間、住まわせていただけないか」と。今から思えば相当ずうずうしいお願いをしましたが、すぐに8畳ほどの納屋を貸してくれました。おかげで、私たち一家はようやく連日連夜の空襲から解放されたのです。 私たちが東京を離れて数日後の3月9日の夜から10日朝にかけて、「東京大空襲(下町空襲)」と呼ばれる大規模な空襲があり、新潟の疎開先でも、ラジオで「東京で大きな被害が出ている」というニュースが流れました。死者数は8万人から10万人、焼失家屋は26万8000戸に上り、罹災者は100万人を超えました。 ラジオから得られる情報は限られていました。父にすれば自宅と杉本建具店がどうなったのか、とても気がかりだったのでしょう。空襲の数日後、東京に向かうべく、長男の私を連れて長岡駅に行きました。しかし 空襲の直後ですから、東京に向かう上越本線は動いていません。「とりあえず長野に行こう」と、信越本線に乗って長野駅に行きました。 長野駅からも東京に向かう列車はありませんでした。とりあえず駅前の旅館に泊まって、列車が出るまで待とうということになりました。その夜、旅館の 朝の8時か9時ごろでしたか、終着の上野駅に近づいてると、一帯にものすごく異様な匂いがしてきました。後でわかるのですが、物が焼け焦げたのと焼死体のまざった匂いでした。貨物列車を降りて上野駅の前に立つと、上野郵便局が残っていました。当時はまだ珍しいコンクリート製の3階建ての建物でしたが、よく見ると中は焼けてしまってがらんどうで、外壁だけが焼け残っていました。 駅前は少し高台で、そこから2人で東京の下町を眺めました。コンクリートの建物を除けば、ほとんどすべての建物が焼き尽くされていて、墨田川がずっと先まで見渡せました。周囲には何もなく、永代橋や吾妻橋などの鉄の橋だけが、異様に黒く焼き残っていました。銀座や築地、そして杉本表具店があった永代橋周辺、自宅のあった京橋辺りも見渡せました。一面の焼け野原で何もありませんでした。 「もうだめだ。全財産をなくしたな」。一縷の望みをつないで、貨物列車にまで飛び乗って来た父でしたが、さすがにがっくりと肩を落としました。「落ち着けば、東京に戻って仕事を続けよう」という父の願いは完全に断たれてしまいました。 自宅や杉本表具店の周辺がどうなっているのか、自分たちの目で確かめたくて歩きだしましたが、上野の広小路は瓦礫の山で埋まり、行く手を阻んでいます。おそらく、自宅への道も同じように瓦礫の山で、歩くこともままならないでしょう。あきらめて上野駅の方向に引き返しました。 お昼近くになっていたのでしょうか。おなかがすいたので、駅の近くの公園に座って長野駅の旅館の主が作ってくれたおにぎりを食べようとした時のことです。わずかの間に子供たちが5人、10人と集まってきました。いずれも幼い男の子や女の子ばかりで炎の中を逃げ惑ったのか、ボロボロの服を着ていました。当時は、2年生から5年生まで小学生は全員、学童疎開をして東京にはいません。集まってきたのはおそらく、小学1年生か未就学の子どもばかりだったのでしょう。 東京大空襲で炎の中を逃げ惑ううちに親兄弟とはぐれ、雨露がしのげる上野駅の地下道に集まってきていたのでしょう。自分たちで食料を確保する力もなく、何日もまともなものを食べてなかったに違いありません。おなかがぺこぺこすいていたのでしょう。でも、手元にあるのはちいさなおにぎりが2つだけ。子どもたちはたくさんいましたし、私たちも朝からなにも食べていません。さすがにあげるわけにはいきませんでした。おにぎりを食い入るように見つめる子どもたちの瞳は今も忘れられません。 杉本孝一郎 ********** 今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号でも同著から抜粋して転載しました。 (pp29-44) |
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