2024年1月号 | ||||||||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.243 |
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あげたおにぎり あげられなかったおにぎり ~所沢市「平和の語り部」の思い~(その1) |
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はじめに 太平洋戦争で日本の敗色が濃厚になっていた昭和20(1945)年2月下旬、東京に大雪が積もった朝のことでした。 爆音が近づいてくるのに気づき、家の外を見ると、いくつもの艦載機が、低く垂れこめた雪雲をかいくぐるように向かってくるのが見えました。「空襲だ」。中学1年生だった私は、6歳と3歳の妹の手を引き、裸足のまま家を飛び出しました。近くの神社の境内にある防空壕に逃げ込むためです。 敵機は私たちを見つけると次々に高度を下げ、数十メートルくらいの至近距離から機銃掃射を浴びせてきました。ものすごい爆音と機関銃の銃撃音が響き渡るなか、雪道を夢中に走りました。妹たちも泣きながら懸命に走り、間一髪で防空壕に飛び込みました。 三ヶ月前に末っ子を出産したばかりの母は、乳飲み子を抱えて逃げることもできず、家の中で震えていました。 その半月後の3月10日未明、東京にB29爆撃機の大群が来襲、大量の焼夷弾を投下し、東京中を焼き尽くしました。死者約10万人、被災者約100万人ともいわれる「東京大空襲」です。 私たち一家は、あの機銃掃射の直後に新潟に疎開したため、全員無事でしたが、もし残っていたら、どうなっていたか分かりません。東京の自宅や家財、そして父が経営していた建具屋はすべて、焼失してしまいました。 新潟県村上町(現・村上市)に移り住みましたが、幸せだった東京での暮らしは一変し、出口のない極貧生活が待ち受けていました。13歳だった私は、学校を続けることも、父の跡を継いで建具屋になるという夢もあきらめ、8人の家族を支えるために父とともに働きに出るしかありませんでした。 懸命に働き、戦後は(村上の)定時制高校にも通いましたが、過労と栄養不足がたたり「死に至る病」と恐れられていた結核にかかってしまいました。日本全体が復興を急ぐなか、私は入院や自宅療養で通算3年間も、病の床につかねばなりませんでした。戦争で大きく狂ってしまった人生を思うと、「自分は何のために生きているのか」と悩むようになり、死をも考えました。暗い青春時代でした。 20年ほどして、弟が立ち上げた会社に迎えられて東京に戻り、今は埼玉県所沢市の自宅で暮らしています。2人の息子と4人の孫、ひ孫にも恵まれ、平穏な日々を送っています。しかし、多くの人の命を奪い、私たち一家の運命を大きく変えてしまった戦争のことは、今も私の心に深く刻まれています。 平成18(2006)年に「所沢市平和の語り部派遣事業」が発足して以来、私は「平和の語り部」として、空襲の恐怖や戦後の苦しかった経験を小中学生や一般の方々にお話してきました。私の話を聴いてくださった方は、所沢市、狭山市を中心に埼玉県、東京都、神奈川県などに広がり、約15年で延べ2万人に上ります。 今でも忘れられないのは、私たちが新潟に疎開する列車の中で出会った小学1年生の男の子です。ひとりでしくしく泣いているので話を聞くと、空襲で東京の家を焼かれ、母を失い、親せきのいる富山に向かう途中だと言います。すると父が列車の乗換駅などを教えて、持っていたおにぎりの一つを、この子にあげたのです。前夜、家に残ったわずかなおコメを炊いて、私が握ったおにぎりです。家族一人に一つずつしかありませんでした。でも父はその子がよほど不憫だったのでしょう。大事なおにぎりをあげたのです。 もう一つ忘れられないのは、その後まもなく、東京大空襲の直後に上野駅で出会った幼い子供たちです。小さな公園で、私と父が小さなおにぎり二つを広げたら、空襲で親にはぐれ、焦げた服をまとった子供たちが、次々集まってきたのです。この時はさすがに、分けてあげることはできませんでした。今でも目を閉じると、食い入るようにおにぎりを見つめる子どもたちの瞳が浮かんで来ます。この子たちの多くは、その後、戦災孤児と呼ばれることになります。 あの子たちはその後、どんな人生を送ったのでしょう。寒さや飢えで多くの孤児が亡くなり、生き延びられた方も厳しい生活が待ち受けていたと聞きます。「語り部」として戦争を語るたび、あの子たちのことを思いだし、「もう二度と戦争を起こしてはいけない」と思うのです。そして今の子どもや若い人たちに、この思いを伝えなくては、と考えるのです。 私は今、子供たちの登校を見守る「見守り隊」活動や、小学校の最寄り駅の花壇の世話、自衛隊基地の騒音に悩む小中学校へのエアコン導入運動、徘徊老人の保護など、さまざまな社会貢献活動をしていますが、原点はやはり「平和の語り部」です。 戦争の記憶は日々風化し、空襲があったことや、日本が戦争をしたことすら知らない子どもたちが増えています。一方、世界では今も戦争や飢餓、病気などで年間500万人もの子どもたちが命を失っています。私はまだまだ語り続けねばなりません。 できるだけ多くの人たちに、私の経験や思いを伝えたいと、この本の出版を決意しました。この本を手に取ってくださったみなさん一人ひとりが、平和を考え、生きることの大切さを考えるきっかけになってくれればと願っています。 ********** 今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号では「はじめに」から転載しました。(pp.4-8) なお、これからは数回にわたって同著の一部を転載してゆきます。 |
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