2023年7月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.237 |
||||||||||
ぼくの学校と先生たち1966~1974 |
|
|||||||||
昭和35(1960)年3月に生を享け3歳ころから飯野の小さい家に住んだ。4歳から近くの双葉幼稚園に入園。新潟地震で床が揺れ園庭に総員避難したときは、崩れた教室を探検しようとして先生に叱られた。 小学校の学級は誕生日順なので、1~3月生まれで編成されたぼくらの1年6組は幼稚園の延長である。6歳児が数カ月も余計に生きた連中に勉強も運動もかなうわけがない。担任の尾崎絹子先生は今にして思えば若き新任教師だったが、弱々しいぼくらには母親のような存在だった。2年生になると少しは世慣れてきて、男たちは当時大流行のスカートめくりに精を出した。「そんなにスカートに触りたければ明日からスカートをはいてきなさい!」と怒られたときは、なんか違うなぁ、と思いながらもきっぱりやめたので効果はあったのだろう。 3年生の学級再編で生れ月はシャッフルされ、5組の担任は父親のような年齢の高橋和男先生。雑学の宝庫で、授業よりその記憶が鮮明である。雑誌や本の受け売りかもしれないが、子どもの知的好奇心を刺激する技に長けた教師で、このころまでぼくは理科も算数も好きだった。 5年生からの3組は八木豊子先生。塩野七生のような知的な雰囲気で、ぼくらもそれに合わせて背伸びしていた気がする。6年生の夏は海でキャンプ、といっても間島駅から歩いた吉浦小学校の教室でざこ寝だから費用は格安である。5年生の遠足は鶴岡市、6年生は酒田市だった。いずれも新潟交通のえんじ色の観光バスでルート7をひた走る日帰り旅。酒田の本間美術館で今日はどこに泊まるの?と聞かれ恥ずかしい思いをしたが、昨年再訪し、50年前ここで記念写真を撮ったと話したら、学芸員がとても喜んでくれたのでよしとしよう。 中学校は人気の南波先生が担任で楽しいクラスだったけど、ちょうど校舎建替の時期。2学期から新しい校舎で旧瀬波中学校の生徒と一緒に学ぶことになり、学年の途中でまさかの編成替え。新しい担任のことは木の棒で叩かれたことしか覚えていない。当時はまだ暴力教師がはびこっていて、黒板消しの木の部分で頭を殴られた気の毒な人もいた。教師たちの名を書いてもよいが武士の情けでやめておく。 暗黒時代を乗り切り2年生、猿沢中学校から転任してきた29歳の渡辺顕先生が卒業までの担任になる。教室の掃除当番をサボってばかりいたら「掃除をきちんとできる人は世の中を渡っていけるから、まじめに掃除しなさい」と諭されたことは今も心に残っている。だからといって掃除はしなかったが、真理を突いた名言である。もっとも本人は、そんなこと言ったかなぁ、ととぼけている。 渡辺先生は着任と同時にぼくが入部していたバレー部の監督に就任した。3年生の夏、下越大会で優勝したぼくたちの新潟県大会初戦の相手は、新潟大学附属新潟中学校。開会式で横に並び、妙にカッコよく見えた彼らの姿に気圧されたのか、第1セットは一方的な展開となった。たしか15対1だったと思うが、渡辺監督の言葉で我に返った6人はなんと、続く第2第3セットを奪還した。その言葉は「お前らの3年間をこれで終わりにしていいのか?」とされているが、夢のようなこの1日のことを誰も正確に覚えていないので脚色された可能性はある。そして第1試合に全精力を使い果たした我々は次のゲームであっけなく敗退した。相手は少し前に十日町市で行われた国体の予選会で敗れた山古志村の中学校。同じチームに2度目の敗北を喫し、新大付属中に勝った喜びは半減するのであった。 調子が出てきたところで紙幅が尽きました。本日はここでお開きといたします。もし先生方のお名前に記憶違いがございましたら失礼の段お詫び申し上げます。 |
||||||||||
昭和41年4月に村上小学校に入学した時のクラス写真 写真の前列左から2番目が筆者 3列目の左端が担任の尾崎絹子先生、右端が校長の宮下美弘先生 |
||||||||||
東京村上市郷友会ホームページ リンク |
|
|||||||||
|
||||||||||
表 紙 | WEB情報 | サイトマップ | バックナンバー | 検索・リンク 発行:デジタルショップ村上 新潟県村上市・岩船郡7市町村 月刊デジタル情報誌 2001年1月1日創刊 (c)2001~murakami21.jp All rights reserved Produce by Takao Yasuzawa |