2022年11月号 | |||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.229 |
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私の故里 耕雲寺・門前 |
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私の生まれたところは市政前の山辺里村門前というところです。「門前」とは、この地にある、曹洞宗耕雲寺の前にあったことで名付けられたもので、この寺が出来る前は杜沢と呼ばれていたようです。 耕雲寺とは応永3年(1394年)開創で、開基は傑堂能勝と言う方です。この傑堂能勝とは南北朝時代、後醍醐天皇の南朝方に在った忠臣、楠木正成の三男で正儀と、後村上天皇に仕えた伊賀の局との間に生まれた正能とされています。 正能は兄の正勝、政元と共に父正儀に従って戦っていましたが、不運にも敵の流れ矢を左膝に受けて不自由の身となりました。25歳の時、臨済宗の古剣知訥和尚の許で剃髪、傑堂能勝と名を改めて仏門に入りました。その後各地で修行し、越前龍澤寺の開山聞本師のもとに参じ学問に励みました。越前に居ること数年、応永3年40歳の時に北を目指し、越後も北の端であるこの地にたどり着きました。 能勝は小庵を結び耕雲庵とし、師の聞本に知らせたところ師から「霊樹山耕雲寺」とするように伝えてこられたので、師の聞本を開祖とし自らは二世としました。往時の耕雲寺は本格的な七堂伽藍があり、常時百名を超える雲水が修行していたとされています。 明治19年雲水が勉強する衆寮から出火し、瞬く間に鐘楼を残して全焼してしまいました。多くの宝物、文献が消失しわずかに残った鐘楼を移設し、山門として往時を偲ぶよすがとなっています。戦後の困難の中昭和23年に本堂の再建が成り、その後も諸堂が整備され、昔の姿が戻りつつあるようです。 さて、このような環境に生まれた私はといえば、子供の頃は毎日毎日集落の子供たちと集まっては、この寺に登りチャンバラごっこに明け暮れていました。半々に分かれて山上からと下からのせめぎ合いで、勝ったり負けたりと日の暮れるまで遊んでいたことが思い出されます。また、冬になると長い階段があるのですが、雪を踏みしめてスキーが出来るようにし、途中に小さなジャンプ台を設けては競い合ったりもしました。 9月6日は寺の開山忌で本堂の下の広場に櫓が組まれ、門前集落は元より村上方面各地から多くの善男善女が集まり、盆踊りが開催され、集落の入り口から寺までの参道は真昼のような明るさでした。 中学は門前集落から6キロほどの所にある山辺里中学校で、学校から最も遠い所でした。夏場は自転車通学でしたが冬場は徒歩通学。今のように除雪車が有るわけでなく、大人が踏みしめてくれた道を風雪に耐えながら通学しました。春先になると雪も固まってくるのでスキーで通うこともありました。 確か、中学3年の頃だと思いますが、村上で当時衆議院議員だった稲葉修先生の講演会があり学校から行きました。演題は「アメリカ見聞記」で先生がアメリカに行かれたときの感想とかを語って下さいました。その中でいかに素晴らしい国であるかを話され、感化されたことを思い出します。その夢が十年後に実現するとは思いもよりませんでした。 中学を卒業すると同時に集団就職で神戸にやってきました。川崎製鉄の子会社で当時は小さな会社でしたが、時流に乗り急成長。米国の会社と技術提携することになり、その実習で渡米することになりました。とにかく目を見張ることばかりで、このままずっとアメリカに居たいと思ったほどです。この米国生活で自分の生き方が変わったと言っても過言ではありません。 16年間勤めたこの会社を「のれん分け制度」を利用し、会社の製品を販売する条件で円満退社。この会社は自分にとっての人生大学とも言うべき所で、多くのことを多くの方々に指導していただきました。 その後自立し「阪神フエンス工業有限会社」として現在に至っています。親会社、得意先のおかげで近畿一円は元より四国、中国にも出向き施工実績を積ませていただきました。 また、関西新潟県人会に入会し、多くの同郷の方と接する機会を得ることが出来、故郷の大切さと、郷土愛を育むことが出来ました。その後旧岩船郡出身の方々の集まりとして「関西岩船村上会」を立ち上げ同郷の方々との親睦を図り、郷土との絆を深めるべく努力しておるところです。私の原点は何と言っても、生まれ故郷である村上であり、耕雲寺でありその門前であります。齢八十にして望郷の念は衰えを知りません。 |
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