2022年4月号 | ||||||||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.222 |
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故郷とイヨボヤ(鮭)の思い出 |
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新潟県の北端の村上市のイヨボヤ(鮭)が帰って来る三面川があります。私はその河口近くの粗末な家で生まれ育ちました。 家の裏の砂山を登ると日本海が広がっています。海を見るのはとても大好きです。粟島は岩ヶ崎の陰で見えないけど、少し移動すると見えます。天気によっては佐渡が見える時もあります。その水平線に沈む夕陽を見るのも好きです。季節毎に違う趣がありますね! 子供の頃は砂山を駆け下りて波打ち際まで走って行くと息切れする程の砂浜がありましたが、今はすっかり侵蝕されてなくなってしまいました。今、実家はコンクリートの堤防とテトラポットに守られているような状況になっています。 広い砂浜では、近所の子たちと砂に大きく夢のような家の見取り図を描いて遊んだり、ハマナスの花や実、ハマエンドウの花や実などをとっておままごとをしたり、綺麗な石や貝殻を拾ったりして遊びました。今でもハマナスの花が大好きです! 家の前には畑や田圃が広がっていて、その向こうにお城山が見えます!まさに臥牛の姿です。今でも私にとってのお城山は実家から見る姿が一番です! 既に両親は他界しておりますが、父は親が早くに亡くなったこともあり、碌に学校も行かずにかなり若い頃に漁師になったようです。10代だったかと思います。私が物心ついた頃には同じ家で一緒に暮らしていた叔父も一緒になって助け合って漁師をやっていました。 今では瀬波漁港の機能は無くなったようで、岩船港に拠点は移ってしまい、ほとんどが趣味の船の船溜まりのようになっております。昔と別の賑わいになってしまったなぁとちょっぴり淋しい気がしますが、仕方がないですね。 父と叔父は魚船で近海に漁に出るという沿岸漁業ですので、母は船の出入りや魚の選別などで家を留守にします。私は弟達のお守りをしながら留守番をしておりましたが、少し大きくなってからは魚の選別の手伝いもしていました。お陰様で魚の名前は結構覚えたと思いますし、美味しい魚の見分け方も少しは覚えました。今でも魚料理は大好きでよく作りますし、イヨボヤのように大きな魚も捌けるようになりました。 さて、秋になると、三面川にはイヨボヤが帰って来ます! 港の近くには定置網で鮭漁を始める為の番屋というのがありました。そこに乗組員が何処からか集まり、寝泊りして漁をやっていました。朝夕の建網で沢山のイヨボヤを獲り、そして鮭漁が終わると違う漁場に行くのか季節的に雇われているのか、番屋に人は居なくなりました。それはどこかの網元がやっていたのですが……その事情は子供の私にはよくわかりませんでした。 その頃の父親や他の漁師の方々は普段の漁ではなく、三面川の河口で大きなフォークのような形の「ヤス」という道具でイヨボヤを突いて獲っていました。沢山のイヨボヤを獲ることは、とても重労働だなぁと子供ながらに感じていました。お陰で美味しいイヨボヤを食べさせてもらえたんですね! 夜になると囲炉裏の側で「ヤス」の手入れをしていた父の姿を覚えています。 すぐに出荷する生のイヨボヤと塩引き鮭に仕込むものがあり、12月迄は皆、忙しい時期でしたが、子供にとっても活気のある雰囲気が心地良く感じられていた気がします。 出荷出来ない傷物のイヨボヤやハラコが食卓にのりますから、美味しい新米とイヨボヤのいろんなおかずが並び嬉しかったのかも知れません。今ではとても贅沢なことです。 私が中学生くらいになった頃でしたか、定置網をやっていた方がやめることになり番屋も無くなった後、どれだけの時を置いてか記憶は定かではないのですが、父親が定置網の権利を得て、これまでの漁の仕方が変わって、真冬以外は建網と言って朝夕に網起こしに出て、獲れた魚は夕方に漁協に出荷するかたちになりました。 乗組員も数人雇うようになり、定置網も船も見える場所に番屋を建てました。従業員はその番屋に通って来てくれていました。海の様子を見たり、漁の合間の休憩場所だったり、網の修理場所でもあるので、日中は皆でそこで過ごしていました。ヤスで鮭を一本ずつ獲っていた時の数とは比べようもない程、獲れることにビックリしました。 そして、獲るばかりではありません。鮭漁の最盛期ころになると産卵の近いメナ(地元ではメスのことを言います)の腹からハラコを絞り出し、そこにカナ(オスのこと)の腹から白子を絞り出してかけて受精させていました。そして、孵化場に届けていましたので、そんな作業を現場で見て育ったことはとても貴重な学習になりました! ただ、獲るだけではなくて、殖やして資源を守って行くことも地元では当たり前なんですよね。今でも春には大きくなって帰って来ることを願って稚魚を放流していますね。産卵に三面川を登って行くイヨボヤは川に入ると婚姻色と呼ばれている色が付いてきます。まっしぐらに産卵の為に上流へ向かう姿は勇壮ですね。だから、イヨボヤは特別な存在で魚の中の魚という意味で「イヨボヤ」と呼ばれているのですね。 村上市内に在る「イヨボヤ会館」では鮭の稚魚のことや成長過程をみたり、いろんなことを知ることが出来ます。いろいろな展示もされている中に「鱒の介」と呼ばれる大きな銀鮭の魚拓があります。それは私の父親が昭和54年5月15日に水揚げしたイヨボヤの魚拓です。 その中の一枚を今でもイヨボヤ会館に展示用に貸し出しています。重さ15、8kg 長さ1、14m 巾32、5㎝もあったのです!初めて見た大きな、大きなイヨボヤでした。 その後、父親も病気になって漁には出られなくなってからは、私のすぐ下の弟(長男)が船長となり、三男の弟も水産高校を卒業後は一緒に助け合ってやっていました。 30年程経った、平成21年6月30日に又もや、大きな、大きなイヨボヤが獲れたのです!もちろん、その魚拓もとりました。重さ16、2kg、長さ1、09mです。巾の記録はありませんでした。 残念ながら、その二ヶ月前に父親はこの事を知る事なく亡くなりました。弟はこの「鱒の介」を水揚げした事で、父親に少しは近づけたかな、父親に負けない漁師になれたかなというような思いがしたそうです。 そして、弟も一年後には病気で他界してしまいましたが、実家には今も両方の魚拓を家宝の様に掲げてあります。 この頃になると、漁の具合も変わってきて、温暖化の影響もあるのでしょうか、獲れる魚が変わってきました。イヨボヤもだんだん獲れ高が極端に少なくなって、末の弟だけでは定置網を継続することが困難になり、定置網は廃業することとなってしまいました。それでも、今も縁のある方の船で漁師を続けている弟からはイヨボヤの季節になると、いつものように塩引き鮭を作って送ってくれますのでありがたい事です。 春にはイヨボヤと同じく美味しい鱒も三面川に帰って来ますね! 最近では帰省する機会も少なくなっていますが、故郷の思い出はたくさんあります。同級生と季節の写真やメールをやり取りして思い出を語り合う事ができます。普段からとても身近に感じることが出来る嬉しい時代ですね。 今年は是非ともお墓参りに帰省して、故郷の海風を肌に感じたり、美味しい故郷の味を味わいたいと思います。 |
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