2021年4月号 | ||||||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.211 |
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故郷の四季と想い出 |
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私の家は、戦後満洲からの引揚げで、私は、昭和22年2月1日に岩船郡荒川町坂町で4人兄弟の末子として生まれました。 未だ、戦後の貧しさが残っており、私の家も井戸水と薪のかまどの台所でした。 雨が降ると雨漏れで部屋はたちまち雨受けの洗面器などで足の踏み場もない程でした。娯楽は木製のボロボロのラジオでしたが、そこから流れてくる「青い山脈」などの歌はとても新鮮に感じ、今も耳に残っています。 そのような生活環境でしたが、遠くに山が見え、近くには池や小川があり、ミミズを捕っては魚釣りをしたり、ザルでの魚取りは大好きな遊びでした。 幼稚園も無く朝昼晩と母の畑仕事の手伝い以外は遊び放題でした。 自分の名前の書き方も小学校入学式当日に母から教えてもらった程でした。 又、引揚げ後、父は小学校の教員として、粟島、寒川、神林、金屋などで勤務し宿直の時には、よく連れて行ってもらいました。特に、粟島ではランプ生活で、海に膝まで入ればサザエがゴロゴロ状態で私にとってパラダイスでした。 故郷の四季は素晴らしく、今もこの地で育ったことを心から感謝しています。 春 雪が融け新緑が芽吹き、遠くの山々に残雪が残る風景は大好きです。 小学校の時、家族と汽車で加治川の桜見物に行ったことが思いだされます。 又、小学6年生の学芸会で発表した「ひな祭り」は心に残る思いでとなりました。(私は五人囃子でした) 夏 何といってもお盆の頃の夏祭り。「おみこし」が重く肩に食い込む痛さが思い出されます。露店のカーバイトの臭いをかぎながらの古本、おもちゃ探しなど懐かしい限りです。中学時代には、学校の帰りに友人と川を塞き止めて水をかき出し、大きなナマズやフナを捕まえ、家で串焼きにして食べましたが、その美味しかった味が忘れられません。社会人になって出張したアメリカのアトランタでナマズ(キャットフィッシュ)の唐揚げがメニューにあり、思わず注文し美味しく頂きました。 秋 文化の日の頃の真っ赤な紅葉は、最高です。 家族で米坂線小国駅までの小旅行によく行きました。荒川沿いの山々の紅葉の素晴らしさは筆舌も及びません。又、中条町乙宝寺の裏山周辺での「いくじ」(きのこ)をよく取りに行き、その味噌汁の味が未だ忘れられません。数年前、坂町から米沢へ行く途中で塩漬けされた「きのこ」が売られており、沢山買って帰り家族にも喜ばれました。 冬 竹スキーや竹スケートはしましたが、冬は最も苦手です。 しもやけ、あかぎれ、雪道の登校、雪かき・・・・大嫌い。 青春時代そして今 村上高校時代に日活映画と小説「人生劇場」に夢中になり、東京に強く憧れ、上京。青成瓢吉と同じ早稲田に入学することが出来ました。 学生時代は、アルバイトでお金を貯めては、バックパッカー。山、北海道、九州など日本国中旅行三昧、大学2年の時にリュック姿で東南アジア(船、鉄道、バス、生まれて初めての飛行機でシンガポール、マレーシア、タイ、カンボジア、香港、マカオ、台湾、沖縄)3ヵ月の貧乏旅行。宿は、ユースホステルか安宿で、寝ていると顔や胸にヤモリがピッシャと落ちてくることはしょっちゅう。 食事は屋台で10円程度のよく分からない食事。散々怖い思いもしましたが、良い思い出となりました。 学生時代を満喫し、総合商社に入社すれば、好きな海外に行けるだろうと短絡的に思い、昭和45年に住友商事に入社。当初、人事部に配属され、この時に偶然「住友病院プロジェクト」の会議に出席した際、住友金属の板垣副社長も出席されており、全く存じませんでしたが、ご発言が、村上弁のズーズー弁。もしやと思い確認しましたら村上高校の大先輩でした。 50歳位になってから、時間的余裕ができ、春秋年2回は海外旅行が出来るようになりました。現在迄約50ヶ国訪問しましたが、まだまだ行き足りておりません。 早くコロナが終息し、また旅行を再開したいものです。 そして、松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の心境が良く理解できる今日此の頃です。 |
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