2021年12月号 | |||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.218 |
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村上という言葉 |
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一九九三年、親族揃って村上へ行った。父の五十回忌法要のためだった。五十回忌法要は誰でもがやってもらえることではない。例えば七十歳で逝けば、配偶者もほぼ近い年齢と考えると五十年後は百二十歳に近く、兄弟も然り子も然りである。父は一九四四年八月、三十四歳で戦病死した。だから、五十回忌をしてもらえたわけだ。 出征した父の里が村上で、母と、私を頭に二人の弟が、父が帰ってくる日まで預かってもらうことになった。一九四二年に私は村上町立国民学校へ入学した。家から学校への道が目に浮かぶ。でもその道は多分すっかり変って、もう私の脳裏にしかない道。反対側の門を出てすぐの日本家屋が、郵便局だったか第四銀行だったか。その近くにクラスメートが居た。確か益田さん、髪がカールしていて可愛かった。安良町には、細くて背の高い親友、逸子ちゃんが居た。 前記の五十回忌のあと鮭のお料理屋さんに行った。そのお店の子と聞いていた吉田君(ひょっとして吉川君?)がクラスメートだったので、店主らしい人にその話をしてお元気ですかと聞くと、ひょっとしたらお逢いできるかと思う間もなく「叔父(伯父?)は若くに亡くなりました」というお返事。がっかりした。戦後、何故か学年に一クラスだけ作られた男女組で、放課後にドッジボールなどしてよく遊んだのだ。リーダーは宮本君。吉田(川?)君は背の高い痩身で色白のハンサムだった。 そう言えばあの頃、大人は忙しいので子供は子供だけで遊んでいた。夏休みも子供だけで三面川に通って其処で泳ぎを教わって覚えた。サーカス小屋が建てば子供だけで覗きに行った。驚くことに笹川流れにも行った。魚と一緒に岩から岩へ泳いだその日も確か大人は居なかった。年長の子の引率だったと思う。 父の名は鈴木清蔵、一九二七年に村上中学校を卒業し、一九三二年に新潟高校を卒業、一九三六年、新潟医科大学を卒業したらしい。何方か父をご存知の方がいらっしゃらないだろうかと、つい、細かく記したけれど、最早いらっしゃる筈もなく。 医者になって八年後に父は死んだ。新コロナウイルスの騒ぎで新聞やテレビで何回も見た武漢という街、其処に漢口陸軍病院があって、父は軍医として其処で働き、蔓延したチフスに罹って死んだのだ。遺骨は船が沈み帰ってこなかった。別便の遺品は届いた。戦死ならば遺品など帰ってくる筈はないのだから恵まれていたと言うべきなのか。 翌年、何人かの戦没者合同の町葬が行われた。簡単に言えば、遺骨と遺影と位牌を持った遺族が町民に見守られながら列をなして葬場へ歩いたのだ。若い妻や親に抱かれた白木の箱の全部に、小石が一個入っていたのかもしれない。そしてその後、玉音を聞いた。 寺町にあるお寺にはお骨(こつ)のない大きなお墓がある。日本中の多くの寺で巨大な立派な墓碑を見る。その裏面に彫られた享年の若さよ。 小学校六年の最後に新潟市に転居し、そして何度か村上へ行った。右側の車窓に臥牛山が現れる。ある時は一面の雪原の向こうに、ある日は緑の地の向こうにそれは在った。今も在るだろう。コロナウイルス衰えず、何処へも行けず友に逢えぬ日々、牛の背の形のお城の無いお城山を思い、其処から見える町並を、三面川を、そしてその先の海を思う。 偶々この冬に、私のエッセー集『本当は逢いたし』が刊行されることになっている。 編集の方が仰った。イケダサンのエッセーは、思いの殆どが結局は日本海に行き着くんですよね、と。成程、そうかもしれない。 「村上」と書いただけで、口に出しただけで、胸が痛くなる。 |
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