2017年9月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.194




三面川の鮭漁にまつわる話



齋藤 實
(さいとう みのる)
久保多町出身
村上小学校卒業(昭和24年3月)
東京都立川市在住
社会福祉法人しあわせ会理事長







筆 者








三面川からお城山を望む












鮭の一括採捕












テンカラ釣りと川船












種 川

 我がふるさと新潟県村上市は、世界で最初に鮭の孵化事業を行った地として、国際水産学会でも承認され、鮭料理文化でも名を馳せている地域である。晩秋になると鮭の帰る川「三面川」での鮭漁のニュースが毎年NHKでも放映されるようになった。
 氷雨が降り始める頃になると、決まって三面川の「おさらい」(鮭漁)を見物に出かけた少年のころを思い出す。新加賀町(現在泉町)の稲荷神社があった土手にその日の漁獲高を示す幟が色分けされて掲げられ、大漁の幟が出た日は多くの見物客で賑わった。河原では、漁師たちが焚火をしながら捕りたての鮭を大鍋で煮る川鍋で暖を取りながら談笑していた光景が彷彿として脳裏に浮かんでくる。
 洪水で何回も流失した下渡橋の上から川面を覗くと、鮭の群れが隊列をなして勢いよく上流に向かって上って行く姿は、誠に圧巻であった。
 昭和21年に舞鶴城周辺に士族が居住していた村上本町とその外周に住んでいた町人・職人の村上町が合併したが、それまで役場や小学校が別々に存在していた特異な行政組織の城下町であった。「おさらい」で捕獲された鮭の一部は、士族の家庭には配給されたが、町人の家庭には配給されなかったため購入しなければならなかった。子供心に町人の家庭に生を受けた運命を恨んだことであった。誇り高き士族の本町と町人・職人町との間には、この様な格差が残されていた。昭和27年、三面川の上流に鹿島建設によりダムが建設されると、鮭の漁獲高が低下したが、孵化技術の向上と孵化場の稚魚放流努力の結果、年を追って漁獲量が増大している事は喜ばしい事である。
 明治44年に魚つき保安林として指定されたタブの木が繁茂する三面川の河口には氷雨が降り始める頃になると鮭が群れをなして帰って来る。二艘の船の間に網を降ろして川を上下しながら漁をする居繰網や村上独特のテンカラ漁で鮭の水揚げが行われる。
 この水揚げを地元では「おさらい」と呼んでいる。三面川での鮭漁の歴史は古く平安時代の「延喜式」によれば、927年越後国から京都へ楚割鮭(今日の塩引き)が献上された記録が書き遺されている。おそらく三面川の鮭であったものと思われる。更に古文書によると、1165年に後白河法皇が院宣を出して国領である瀬波川(三面川)で鮭の密漁を禁じた事が記されている。また、「吾妻鏡」には、佐々木盛綱が焼鮭を源頼朝に献上し、これを食した頼朝が「こんなうまい食物があったのか」と褒めたと言う記述がある。「楚割」(すわやり)と称し、身を細く切って乾燥させ酒に浸して戻し、焼いて食べたりしたものと思われる。冷蔵技術の無い当時は、遠方からの食べ物は保存食の形態をとったので、貴重な食べ物とされたものと思われる。これが今日、村上で酒の肴の珍味として有名な「さかびたし」という料理の食文化に活かされているものと言えよう。
 江戸時代に入り、譜代大名内藤氏の藩政が続く中で村上藩は鮭漁に運上金を課し藩の財源にする政策を採用した。
 1751年下級藩士の青砥武平治が、鮭が母なる川に帰って来ると言う回帰性に着目し、河口から1,5キロ上流に「種川」と称する人工の小川を掘って、世界で最初に自然孵化に成功した。この事実が、国際水産学会でも承認されている。1852年フランスが鱒の人工孵化に成功し、カナダでは、1857年鮭の人工孵化に成功している事を思うと青砥武平治の冷静な観察眼と実行力は、真に画期的な事であった。

 私が教職生活のスタートを切った攻玉社学園の創立者近藤真琴が、明治6年ウイーンで開催された万国博覧会に明治政府から派遣団員の一人として参加した。メンバーの中に鮭・鱒の孵化技術や放流事業を意図していた関沢明清(水産大学の前身水産伝習所初代所長)も参加しており、近藤とは洋学者村田蔵六の鳩居堂で学んだ同窓の間柄であった。帰国後、近藤真琴によって「養鮭記」という人工孵化に関する重要な記録が残されている。
 「鮭は、ライン川ではスイスまでエルベ川ではボヘミヤまでさかのぼる。生まれた所に戻って産卵するが、その時期は12月から2月まで」との記述がある。フランスの人口孵化技術が、1850年頃漁師と学者によって開発された事に触れて、鮭の分類にも言及している。更に「英国では鮭漁が減少しているため、保護法を制定し人工孵化が行われている」という記述もある。孵化技術については「腹から牛乳を絞るようにして、卵を亜鉛製の器に取り出して雄魚の白子(ミルト)をかけ孵化器に移して流水にさらしておく。腹から卵やミルトをしぼりだす時には、強く押してはならない。」といった細やかな記述も見られる。「北海道では、鮭は多いが人出が不足しているから捕獲道具を改良して捕獲量を増やして外国に輸出をすれば国益になる。越後の鮭(三面川の鮭を意味しているものと思われる。)は、繁殖を心がければ減少する心配はないだろう。利根川等にも良種を人工的に養育すれば、漁魚量を増やすことが出来る。人工孵化による放流は、費用もかかり損失も出るだろうが辛抱して、艱難辛苦に耐えて衆人心を一つにして、一国一郷の公益を図らなければならない」と結んでいる。我が国の水産資源確保について先見性に富んで卓見と言えよう。

 歴史の点と線が、人と人との縁によって大きく面に広がることを願いつつ。

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リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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