http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001
2013年2月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.140


朝の村上小学校第一講堂


木村 晴男
(きむら はるお)
昭和34年3月 村上小学校卒業
昭和44年4月 電気化学工業(株)入社 渋川工場長歴任
現在  CRK(株)出向 
        代表取締役社長









【村上のDNAを受け継ぐ孫と…。
妻17回忌にお城山にて】



















 高校受験を意識して中学3年の三学期に福島県に転校するまでが村上に在住した期間である。
その後50年も時は流れたが、親族等々の関係で時々村上には行っている。妻も村上人であり、自分以上に激しく方言丸出しだったので、毎日が復習状態だった。
故郷を離れると、お相手の話し言葉の中に越後弁を発見すると、上越弁であれ何であれ新潟の郷愁を感じ同郷を感じてしまう。残念なら村上弁を聞くことは皆無であるが。
 昨年、一人暮らしの母を説得してケアハウスに入所してもらった。その際たくさんの方々に面倒を見て頂いたが、大概の方が朝日の方のようだった。実は彼・彼女らのイントネーションが村上弁の筈だと思っていたが何となく違和感をもっていた。今でも朝日に住む中高年のイントネーションは山形弁の要素をもっているが、ケアハウスの方のイントネーションが朝日弁?と理解することが出来ない。もしかしたら村上弁と標準語が調和した村上地区広域弁になったのかな?この50年間は高度成長期を経て、更に情報通信網の発達で方言がどんどん画一的な方向に変わってゆくのは必然なのだと勝手に解釈している。小生の楽しみのひとつはTVの旅番組だ。ここでの興ざめは、どこの小学生も標準語で受け答えしていることだ。彼らはおじいさんとは方言で、その他の人達とは標準語で話すバイリンガルなのだろうけれど、TVの力に脱帽せざるをえないが面白くない。
 最近純村上弁に憧れている。ディスカバー村上弁。村上弁には町コトバと本町コトバがあったが自分では識別方法を忘れてしまった。さーて!何処に行ったら発見できるのだろう。今年になってあるお店でそれはそれは素晴らしいイントネーションを聞くことができた。一瞬にして耳を通り過ぎてしまった場面だった。村上弁同好会でもあれば自分一人でも至福なのだが。
個人的なことなのだが、父の葬儀の時から富士美園の店主と話すことが多い。同じ町内でガキの頃はよく遊んでいた。彼は立派な、小生の耳に快い村上弁だ。一緒に話をしていて自分も一生懸命に昔コトバを使ってみるのだが満足のゆく村上弁にならない。
秋の連休に、いい年齢になった娘をつれて一度行ってみたかった千渡里さんに飲みに行ってきた。
地魚の刺身、焼き魚に酢の物などなど。割烹料理なのでスマート。お酒は受け皿に細身のコップをのせて、目の前で一升瓶からトクトク注いでもらう。銘柄をいくつも代えた。調子にのって注文した梅酒は場違いだった。途中で娘に負けまいと頑張ったこともあるのだが、随分杯を重ねてしまった。いっぺんに願いがかなった。
 大分良い心持ちになって、さあお開きの段になったらお客が入ってきた。なんと!富士見園の店主のご来場である。ここで一気に昔の思い出話しが始また。当然お互いの共通話題。小学生時代を一生懸命に思い出してあーだった、こーだった。自分も引き込まれてしまい、思い出すことのない記憶が呼び戻される。村上小学校の第一講堂。授業が始まる小一時間前。児童が芋の子を洗うように元気に遊びまわっている。塗料など塗っていない床にチョークで丸を書き、町内対抗の相撲の試合。ハローチャンはツーウェかった。セーモターケカッタシナ。演出の必要のない最高の時間であった。
 最近、いろんな事情を考えて母を私の住む群馬に転居してもらった。菩提寺が村上だから、これからも行き来するだろうが、これを期に少しずつではあるが村上から離れるような気がして寂しくなる。これからも【村上】のゼッケンは外しませんが。  
   
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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