http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001
2011年4月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.118


村上藩と我が祖先




森脇 正基
(もりわき まさき)
昭和16年 東京に生まれる。
昭和39年 大学卒業。同年銀行に入行。定年退職まで37年間勤続
[著書]エッセイ集「邂逅と喪失」平成19年。第一歌集「荒磯路」平成22年。










歌集「荒磯路」
平成22年11月10日発行
写真:村上市笹川流れ海岸(筆者撮影)






 私は東京生れ東京育ちですが、村上は父の故里であり祖先(おや)の地、菩提寺(體眞山満福寺)が残る街である。嘉永六年(一八五三年)村上藩主内藤信思(のぶこと)の頃の藩士分限帳に依れば帳付として森脇儀左衛門の名がある。我が家の家系図では第六代としてその名が見える。明治維新の時には当家第十代私の曾祖父森脇正恒が江戸詰で祐筆を務めて居た。其の後村上に帰り明治を生きた。正恒は静岡県掛川藩の一代家老日向氏の娘(かね)と結婚三男四女を授かり、村上に戻ってからは謡曲を誨えていたという。祖父(正文)は村上の町校に奉職中に結婚、其の後新潟県庁に勤めるも若く(三十三歳)して亡くなった為、祖母は二人の子供(一男一女)を育てるのに大変苦労した様である。
その一女である私の伯母は柏崎の高等女学校を卒業し、村上の小学校で教壇に立っていたが、大正七年結婚翌八年に学校を退職、日本を離れ北米カリフォルニア州はロス・アンジェルスに移住した。そして先の戦争を挟んで米国に永住し八十八年の生涯を当地で終えた。一方残された祖母と父(正雄)は、父の進学(早稲田大学)に伴い大正十年頃村上を離れ上京する。
伯母が残した手記の一節に村上の鮭に纏わる大正初期の頃の様子が次のように記されている。「村上には独特な制度があった。三面川に鮭が遡ってくるのを漁するのに十二月十五日から一月十五日の一ヶ月間は、維新後も藩としての権利を持っていて、川端に小屋を建て一軒から二,三人づつの人が集められ川番をする。その一ヶ月間で漁れた鮭は、毎年東京の内藤家へ百五拾尾送り、残りは士族の家に順々とただで配られた。今日は貰える日と知らされると母は籠を背負って出掛けて行った。鮭には戸主の名が付いていて、或る年には四拾五尾も貰ってそれを塩引にした。食べ切れない時は魚屋さんに売る。それが又生活費の一部になったものである。士族の子供が上級学校に行くのに学費を貸してくれる育英会という制度もあり、学校も役場も本町といい士族の住んでいる所で全部村上町とは別に運営されていた。その様なことから村上の士族の人達は鮭の子と言われていたものです」。明治維新により廃藩となった後の没落士族の生計をこういう形で支えようとした村上藩の矜恃と先見の気象に優れた見識を感じる。
さて話は最近(平成十九年)のことに移るが、東京に村上市郷友会という親睦会があり会長の赤見市郎さんからお誘いを受け出席した折に、村上市収入役の渡邉貫造さんとお話しする機会があった。渡邉さんは村上では森脇という名字は聞かないがと仰しゃられた。そう森脇をいう姓は西の方に多く「姓氏家系大辞典」(太田亮 角川編)に拠ると、石見、出雲、備後、播磨、丹波などに見られる名族とある。では我が祖先は村上といつ接点を持ったのであろうか。一六四九年(慶安二年)から一七〇四年(宝永元年)に掛け三代に渡り姫路より村上藩主が封ぜられている。確たる資料が無いので推測の域を出ないが、姫路より村上に封ぜられた藩主に付随して行った者の中に森脇姓の者が居たのではないか。はたして我が祖先のさらなる遠い故里は、この西国の何処の地なのか遥かなる淵源のその地に思いを馳せることである。

リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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