“どこかに故郷の
香りを乗せて
入る列車のなつかしさ
上野は俺らの心の駅だ
くじけちゃならない
人生があの日ここから 始まった”
作詞関口義明
作曲荒井英一
井沢八郎が昭和39年に唄って爆発的なヒット曲となった「ああ上野駅」一番の歌詞である。当時日本は高度成長期の時代にあって、金の卵といわれた東北、上信越地方などの中学校を卒業したばかりの多くの少年少女たちは、「集団就職列車」と呼ばれる蒸気機関車に牽引される列車に乗って上野駅に就職のためやってきた。井沢の唄う「ああ上野駅」はその集団就職者の愛唱歌でもあったが、戦後日本の歴史に残る国民全体にとっての名曲ともいわれている。
その井沢八郎が亡くなった。家も秋川境の八王子で、時々秋川駅周辺にも顔を見せていたという話も耳にした。昭和12年生まれ、私と生年が同じこともあってさびしさも格別だ。
同じ年生まれといえば、美空ひばり、江利チエミがいる。二人とももうとっくにこの世を去っている。
現在のようにテレビもパソコンもなく唯一ラジオが楽しみの中心だった時代に小学生時代を過ごした私にとっては、ラジオから流れてきたひばりの「越後獅子の唄」(昭和25年)、チエミの「テネシーワルツ」(昭和27年)は今でもおぼろげながらある感慨を持って口ずさむことが出来る。
と同時にこの曲を耳にする時、あの頃の家族団欒の様子が走馬灯のように浮かんでくる。部屋の片隅のやや高いところに決して性能がいいとはいえないラジオが置かれていて、ちゃぶ台を囲み父母を中心に家族一緒に食事や団欒をしながらラジオを通じてひばりやチエミの歌、あるいは、連続放送劇「鐘の鳴る丘」、「三太物語(おらあ三太だ)」などを聴き、全員で心ときめかして会話を楽しんだものだった。この平和な憩いの場としての家族団欒が現在の私の人間形成に大きな役割を果たしたと思っている。
近年科学の進歩に伴い人間社会の営みのシステムが急激に様変わりし、この変化は子どもたちの健やかな育成にも大きな影響を与えていて、その対応策づくりのため各方面で努力している。
施策の充実ももちろん大切なことだが、小学生時代に最も必要なことの一つとして、共通の話題を中心にして行う「家族の団欒」も欠かせないと私は信じている。
―家庭を平和な憩いの場にしようー
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