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リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.256 |
令和7年2月発行 | |||||||||||||||||||||||||
山小屋の話しー紙一重ー |
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最近では北飯豊(きたいいで)と呼ばれるようになった飯豊連峰の北部に位置する山小屋は,関川村の朳差岳(えぶりさしだけ)避難小屋,胎内市の頼母木山(たもぎやま)避難小屋と門内岳避難小屋の3つである。関川村にはさらに,梁山泊と大熊小屋とがある。梁山泊や稜線上の3つの山小屋は登山者,一般市民に盛んに利用されている。 この四つの山小屋の管理や登山道の草刈り,保全作業を山の先輩らとともに退職前から始め,かれこれ12年たった。「餅マキしたら良い」と誘ってくださった山の先輩に甘えて,山小屋梁山泊に似た新居を関川村大石に建て住み始めて5年がたった。 夏場でも雪をいただいた連峰の姿を幼いころより遠くに見てきたが,まさか自分がその銀嶺のもとで暮らすようになるとは予想だにしなかった。ましてや運動神経のお粗末なわたしが年に何十回も飯豊に登るようになったことなど,村高同窓生もにわかに信じてくれるはずはない。 1978年,大学に入るとすぐさま地質教室の先輩らから盛んに山に誘われた。 先輩に連れていかれた山々は地質調査の対象であり,歩くのはほとんど沢である。沢のなかであれば地質を観察しやすい。先輩から山の歩き方,石の見方,地形の読み方,地図の見方,地質調査の方法を山で教わった。津川-三川地域,五頭山塊,奥会津-只見,谷川連峰,難波山,米山-黒姫,清津峡,葡萄山塊,佐渡。バイトで貯めたお金はことごとく旅代に費やされた。1980年,紀伊半島から四国,広島から松江,山口,阿蘇から桜島まで地質を視て周った。 1981年から1983年にかけては,黒川村夏井-鍬江から関川村~山形県小国町にかけての山々を卒業論文・修士論文の対象地域として地質調査した。ひとりで沢を歩くのである。毎日,やぶ漕ぎ,沢登りであった。雨の日も沢を這い山に登った。滝でまくれて何度か死にかけた。かみひとえで生き残ってきた。 岩石を叩き割り新鮮な断面をルーペで観察し記載する。その積み重ねで地質図を描き,地球史をひも解くヒントを得る。地質学はとても面白い。ときには,重要な地質現象が垣間見える場所では植生を剥ぎ,あらわれた地質をタワシでこすってきれいにし,スケッチし記録写真を撮る。これらの行為はひとによっては自然破壊に見えるであろう。自然破壊と地質の自然観察とは紙一重なのである。 山小屋を利用される登山者は自由である。 下界での職業種や職場での地位の違い,性別,外勤か家庭内労働かなど,下界での生きるための人の枠・“くくり方”・“くくられ方”は山の上では通用しない。知り合いであるか否かに関わらず,山の上では“枠”から解き放たれてひとりひとりが自由になれる。夕陽をながめながら初めて出会った方にも心をひらき語らい,朝陽の登るのをともに見て生きる勇気をわかちあうことができる。花の名前を教え合い,峰々の名前を教え合って,今朝の第一歩を踏み出す喜びを共有する。登山者から『小屋番さん』と呼ばれる山小屋の管理人となって,これらの場面を目を細めてだまって遠くから眺めている。 登山道の草刈りを始めたころ,倒木処理中に登山道から滑落したことがある。カミさんの見ている前で十数m落ちた。幸いにも未だに生きている。倒木処理と自分の命,かみひとえであった。 「お前の笹やぶの刈払いは広すぎる」と山の先輩に叱られたことがある。笹の成長は場所ごとに異なり,風向きだけではないクセがある。広く刈らないとすぐさま登山道が隠れてしまい道迷い遭難への引きがねとなりかねない場所もある。草刈りと言う自然破壊と笹を残せと言う自然保護は紙一重なのである。その刹那を杣人が歩く。 65歳を過ぎたいまは山で無理はしない。いまは卒論の山ふところに住まいし,村高を卒業したのちの地質調査中に自分が行った自然破壊の罪滅ぼしにと,ながらえている命の恩返しを兼ねて登山道の草刈りや保全,山小屋管理など山の作業に就いている。 紙一重で先に逝った山の先輩に逢うまでは。 (以上) |
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