2024年8月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.250


因果はめぐる…シャギリぐるま



堀田 亨
(ほった とおる)
昭和33(1958)年3月12日生まれ
県立村上高等学校卒、
信州大学理学部地質学科卒
株式会社 新協地質(新潟市)技術部長
技術士(応用理学部門・地質)(総合技術監理部門)
学芸員(京都芸術大学 博物館学芸員課程)
「村上まつり保存会」事務局
「本庄繁長公の会」事務局長
「城下町村上 庭の会」副事務局長





筆者の近影










64年ぶりに復元新調された車輪









車輪完成直後、
市長も加わり記念撮影










本庄繁長公の会による籠城再現イベント(臥牛山、平成25年)










村上を離れる時、形見に
持って行った父順三の絵

(1)遠い記憶
 家の前で、父親に抱きかかえられながらシャギリに乗せてもらった。それはおそらく2~3歳の頃だっただろうか。私の最も古い記憶である。60年以上も前の記憶だが、町内の人たちがわざわざ山車を止めてくれたこと、その時の父の嬉しそうな顔、などを鮮明に覚えている。
 当時の村上大祭では中央商店街の両側に出店がところ狭しと立ち並んでいた。小学校の頃の思い出といえば、宵祭りの夜、「早く寝なさい」などと言われて、外の雑踏の賑わいのなかで眠りにつくと、静寂のなか、荒馬の声で目が覚め、そのギャップがなんとも幻想的だった。身支度を整えシャギリが置かれている江戸庄さんの前に向かうとき、朝もやの中に小町坂から登ってきた久保多町の屋台の提灯がぼんやり浮かんでいた。そんな光景がよほど目に焼き付いているのか、今でも夢に現れる。

(2)めぐる因果
 あとで知った話だが、慣れ親しんだシャギリの車輪が私と全く同じ昭和33年3月生まれだった。したがって、おそらく私の古い記憶の頃はピカピカの車輪が誇らしげに回っていたのだろう。「老朽化」の一言で片付けられると自分の事を言われているようで同情するが、10数年前から車輪のキシミなどが目立つようになり、新調することを前提に準備が進められた。中学校の頃、羽黒口に引っ越した私だが、有難いことにお祭りはずっと関わらせてもらっている。車輪については、自分と同い年であることに因縁を感じ、新調の段取りなどのお手伝いをさせてもらった。また、町内の意向により、その記録冊子の編集を担当した。新調車輪の木材は大川製作所にご面倒頂き、木工は中山建築、塗りは尾﨑漆工が担当した。すべて村上の職人の技術力ということに、伝統の重みと、技術をひたすら継承してきた先人たちの熱い想いを感じた。
 平成30年3月に国指定重要無形民俗文化財に認定された「村上の祭行事」であるが、この車輪の復元新調に文化庁からの補助金が認められた。大祭発祥の地である大町に国指定になってからの補助金第1号が付与されたのも何かの巡りあわせだろう。市からの補助金も加えられ、令和3年度に完成となった。64年間、ボロボロになるまで働き続け、役目を終え外された車輪が愛しくて、「お疲れ様」と声をかけた。この年、おりしも孫の椋介が誕生したのも何かの因縁だろう。彼が大きくなった時に新調した車輪をどんな風に眺めるのだろうと思いを馳せている。

(3)戦国武将との出会い
 前述の「荒馬」であるが、村上の戦国武将「本庄繁長」が上杉景勝の軍として庄内に出兵し、最上軍に勝利して凱旋した様子を模っているとされている。したがって、村上の人は「本庄繁長」という名前だけは知っている。だが、深く知る人は少ない。私もその1人であったが、なぜか、ある時ふと、この武将に強い関心を抱き、調べてみたいと思った。すると、彼は、上杉家の家臣として、川中島や関東へ従軍、庄内での最上軍に勝利、福島で伊達政宗軍に勝利など、85戦負けなしの75年の波乱万丈の生涯を送っていることを知ることができた。身近にこんな強くて魅力的な戦国武将がいたことに驚いた私は、まずはその魂が眠る福島市の長楽寺へ行ってみたいと思った。そして、そこでの中野重孝住職との出会いに刺激を受け、10年前の繁長公没400年を機に村上で「本庄繁長公の会」を立ち上げることとなった。
 出会いにも恵まれた。繁長公の家臣であった飯沼藤四郎の子孫である飯沼与三太さんが会長を、歴史研究家で元郷土資料館館長の松山勝彦さんが副会長を快く引き受けてくれた。この会のコンセプトとして「交流」と「学術」を掲げた。交流としては、ゆかりの地である福島市、山形県白鷹町の人たちとバスツアーを企画し、それぞれの地域の史跡や「庄内」「上越春日山」などの史跡めぐり、北海道の東部に位置する厚岸町の47代目当主本庄俊長さんを訪ねるツアーなどを行った。「学術」としては猿沢城跡の調査、生涯を紹介する冊子「希求」や、関係古文書をテーマにした冊子「本庄繁長~古文書に見る実像~」を発行した。現在、会員は全国におよび、その数は約70人となった。夢は大きく、小説や大河ドラマのテーマに取り上げられることを目指している。

(4)思い起こせば…
 村上を離れてちょうど50年になる。今思えば、高校時代は大切な時期だったのだが、残念なことに、(生意気にも)受験勉強の矛盾などを感じ、何となく思い悩んで気力が噛み合わず、成績も落ちてしまった。ただ、天体観測仲間と一緒に立ち上げた地学クラブの顧問の木村澄枝先生との出会いもあり、興味を持った地質学を大学で学びたいという希望だけは、何としても達成させたかった。とは言うものの、それまで何不自由なく育った私は、井の中の蛙そのものであり、このままでは大学はおろか、悔いの残る人生になってしまうのではないかと、この時、強い危機感を感じたのだった。
 そこで、卒業後、親に頼み込んで、わざわざ遠く離れた仙台の予備校で、一から出直そうと考えた。今から思えば笑い話だが、茶道教授の母ユリからは「粉引」という白い茶碗、趣味で日本画を描いていた父順三からは日本海に沈む夕日の絵を形見にもらった。簡単には帰らないという、相当の決意だったようである。ようやく歯車が噛み合い、猛勉強の甲斐もあって、希望の大学に合格することができた。振り返れば、それが大きな分岐点だったのかも知れない。そして、長年に亘って自分の専門を生かした職業に就くことが出来ていることは幸せで、有難いことだと思っている。

(5)村上との再会
 若い頃はアクセクと、そんな余裕すらなかったが、今は、自分を生み巣立たせてくれた村上の少しでもお役に立てればと思い、地域活動に参加させてもらっている。諸先輩がたの意見とまったく同感であるが…、外の世界を見てきて、サケのように…村上から吹いてくる匂いに惹かれて戻ってみると、改めて村上の魅力を強く感じる。それは、年を重ねたせいばかりではないと思う。
 そして、正真正銘の形見になってしまったが、両親に感謝しつつ、茶碗と絵は今でも大切にしている。


        
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次回予告

 
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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