2024年3月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.244

あげたおにぎり あげられなかったおにぎり
~所沢市「平和の語り部」の思い~(その3)

杉本 孝一郎
(すぎもと こういちろう)
昭和7(1931)年1月、東京で生まれる。明川国民学校高等科入学、昭和20年に疎開で一家で村上町に転入。同年、父と共に宮本製作所入社。昭和22(1947)年、町営番長住宅に移転(後に飯野に自宅を建てる)。昭和24(1949)年、県立村上高校定時制夜間部に入学。在学中、村上高校全学弁論大会で優勝。昭和29(1954)年3月、村上高校卒業。昭和34(1959)年に結婚し、昭和39(1964)年に一家で上京し昭和43(1968)年に所沢市に移転。その後、地域活動として入間基地騒音の防音対策、平和の語り部、東狭山ヶ丘駅ロータリーの花壇の世話、児童の見守り隊などに取り組み、令和元(2019)年に長年社会貢献の功績で埼玉県より「シラコバト賞」受賞。





筆者の近影











「進駐軍のジープに群がる子どもたち ©小学館」










「宮本製作所の社員たち。筆者は後列右から4人目。昭和20年代初め」
















新潟での極貧生活
 
 東京大空襲の数日後、東京が一面焼け野原になったのを見て、父はよほど落胆したのでしょう。父と私はなんとか家族の待つ新潟の疎開先の来迎寺に帰り着きました。東京に戻って暮らす道は絶たれましたし、来迎寺も遠縁の家ですから長居はできません。とにかくより安全な日本海側に行こうということで3月中旬、とりあえず次男孝次、三男武が学童疎開をしていた新潟県岩船郡関川村に向かいました。
 弟たちがいたのは、国鉄米坂線(現在の山形県米沢市の米坂駅~新潟県村上市の坂町駅)の越後下関駅から歩いて30分ほどのところの関川村、高瀬温泉の温泉旅館でした。そこで私たちもその旅館に宿泊することにしました。(東京の)自宅も家財道具一式も失いましたが、とにかく約半年ぶりに一家全員が再会できたのです。
 父はまだたくさんお金を持っていましたから、私たちは1ヶ月近く、温泉旅館に滞在しました。まだ戦争は続いていましたし、都市部の空襲は日に日に激しくなっていましたが、私たち一家は空襲のない静かな温泉旅館でひとときの休息を取りました。私や弟妹たちは、温泉の湯船で泳ぐなど、無邪気に遊んでいました。その先にどんなに厳しい生活が待ち受けているか、その時はだれも知りませんでした。

13歳の就職と食糧難

 温泉旅館への長期滞在で、さすがに懐が寂しくなったのか、父は関川村の隣で、当時比較的大きな町だった新潟県岩船郡村上町(昭和29年に村上市)の役場に「空襲で焼け出されました」といって支援をお願いに行きました。すると同町の羽黒町地区の町会所を貸してくれることになり、町会所の8畳一間の事務所に住むことができました。昭和20(1945)年4月のことです。雨露はしのげますが、町会所の事務所ですから水道も井戸もありません。毎朝隣の家に水をもらいに行くような日々でした。
 仕事も家財道具もない、まさに裸一貫です。乳飲み子まで8人の家族が生きてゆくためには、仕事を見つけなくてはなりません。父が再び村上町役場に相談に行ったら、村上駅のそばに本社のある、脱穀機などの農機具メーカーとして日本で有数だった「宮本製作所」という会社を紹介してくれました。
 宮本社長さんの厚意もあって、父と私を雇ってくれることになりました。13歳の私まで雇うのは、いまなら労働基準法違反でしょうが、私は当時の義務教育である国民学校初等科を修了しており、二人とも雇ってもらいました。当初はかなりの従業員が出征していたので、人手不足だったのかもしれません。社長夫婦は、空襲で焼け出された私たちを気遣ってくださり、鍋や釜、茶碗といった日用品をそろえてくれました。
 戦時中、宮本製作所は農機具だけでなく、軍の要請で飛行機部品なども作っていました。最初、私は部品製造の現場に配属され、父は建具職人の経験を生かして、社内で木工関連の仕事をしていました。でも、給料は安く、極貧生活が続きました。
 一家の家計をたくましく切り盛りしたのは母でした。父と違って、つねに厳しい母でしたが、収入も食料もないなか、田んぼでタニシをとって佃煮にしたり、野草のツクシやモチグサを摘んできたりして、食事を作ってくれました。さらに母は毎朝、3,4キロ離れた瀬波海岸まで歩いて通っていました。地元の漁師から、売り物にならなかった雑魚を安くわけてもらうためです。ただ、当時は戦時中で日本中だれもが貧しく、おなかをすかしていた時代で、私たちのような人たちはたくさんいたのです。

敗戦後も8畳一間の暮らし

 昭和20(1945)年8月15日、日本は連合軍に無条件降伏をし、日中戦争から数えると8年余に及ぶ戦争の時代は終わりました。私はその日、朝から工場で飛行機用の部品を作っていましたから、昭和天皇の玉員放送は聴いていません。後で会社のひとから聞かされて、日本の敗戦を知りました。1,2週間たったころでしょうか。アメリカ軍の兵隊が村上町にやってきて、ジープの上から、チューインガムをばらまいていました。腕に「MP」の腕章を巻いたアメリカ軍の憲兵隊もあちこちに姿を現しました。
 戦争が終わったからといって、東京の自宅や杉本建具店は焼けてしまいましたから、私たち一家に戻るところはありません。8畳一間しかない町会所の事務所に、家族8人が住み、宮本製作所に通う生活は変わりません。貧しさとの闘いはむしろ本格化したように思います。
 村上町は1,2年後、戦災者や満州や朝鮮半島、戦地からの引揚者のために、「番長(ばんちょう)住宅」という仮設の町営住宅を建設。私たちも町会所からそこに移ることになりました。といってもバラック同然の小さな家で、町会所と同じ8畳一間しかありません。風呂はなく、トイレはくみ取り式の共同トイレでした。子どもたちは年々成長しましたから、だんだん手狭になっていきました。その番長住宅には、その後大スターになる宝田(たからだ)明さんの一家も住んでいました。彼は村上町出身で満州からの引き揚げ者でした。1年ほどして(宝田さんは)東京に行きましたが、年の近い弟たちは一緒に遊んだりしていたようです。
 当時の一家の収入は、父と私が宮本製作所で働いて得られる給料と、母が近くの会計事務所に時々食事の手伝いに行くなどして得られるわずかなお金だけで、8人家族が生きていくのは大変でした。私の給料は当初は2,3千円でしたが、給料はすべて母に渡し、私は月500円しかもらえませんでした。1,2カ月に一度、映画に行くのがやっとでした。正月前の障子の張り替えも、母の指示で、私が負担させられました。
 そんな家計にもかかわらず、「自分たちの家がほしい」というのが母の夢でした。そして、どう切り詰めたのか分かりませんが、いつのまにかお金を貯め、村上町に土地付きの一戸建てマイホームを購入しました。昭和27(1952)年のことです。東京で焼け出されてわずか7年でしたから、これには私も驚きました。さすが明治女だと思います。ただ、私は10年間、母に給料を渡し続けましたから、家の購入費には、私の稼ぎが相当含まれている筈です。でも、後日私たちが東京に移る際にこの家を売却した代金は、すべて父母に渡しました。厳しい母を持った長男は大変でした。

杉本孝一郎
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今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号でも同著から抜粋して転載しました。
     (pp.47-55)


                    
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リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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