2022年2月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.220



半藤一利著 ノモンハンの夏 読後感


 私は、昭和26年村上高校卒業の3回生佐野清廣でございます。この本を読んだのは5,6年あるいはもう少し前かも知れません。強く印象に残っておりましたので、「鮭っ子物語」の原稿依頼を受けた時に、読後感で良ければとお引き受けしました。
 ※読後感で書き始めましたが 原著の内容紹介 になりました。ご了承下さい。

 この本は、1939年(昭和14年)5月~9月にかけて旧満州(現中国東北部)外蒙古間の国境ノモンハン付近で発生した紛争事件です。

ここで「ノモンハンの夏」から引用します。
「事実、ソ連と満州と日本(朝鮮)が国境を接している朝鮮半島の東北端の張鼓峰付近で前年1938年(昭和13年)7月中旬に、日本軍一個師団対ソ連軍二個師団が戦火をまじえる大事件が起きていたのである。ソ連軍の飛行機、戦車、重砲をくりだす正攻法の近代戦法の前に、出動した日本軍は叩かれっぱなしの手ひどい損害を蒙る。(中略)幸いにも8月11日、外交交渉がまとまって休戦となった」 

 ここで、ノモンハン事件で主導的役割を果たした二人についてwikipedia及び半藤氏の文章からの引用を含め私なりに再構成してみる。

辻 政信[1902年(明治35年)~1961年(昭和36年)以降消息不明]は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜。最終階級は陸軍大佐。内柔外剛または内剛外剛。

服部卓四郎1901年(明治34年)~1960年(昭和35年)
陸士34期・陸大42期軍刀組。最終階級陸軍大佐。内剛外柔。二人について、「参謀本部編制課で席をならべたときから、二人は奇妙にウマがあったという。ともに稀にみる秀才であった。体力・気力とも軍人らしく秀でていた。が、性格的には水と火のごとくに違っていた。辻が内柔外剛、その信念と才智と豪気にまかせて、行くところしばしば風雲をまきおこし、敵をつくったのに反し、服部の歩みはその性格の内剛外柔にふさわしく、先輩後輩の尊敬を集めつつ、包容力ある人物として、エリート幕僚の道を一歩一歩のぼってきた。
豪毅不屈、鬼参謀とか勇士参謀とかよばれた辻であるが、服部には心から信頼し尊敬する上司として仰いで仕えている.逆に、辻を部下としてよく使いこなした上司としては、服部が唯一無二の人といわれた。」

 この服部・辻の主戦論コンビが中央の参謀本部作戦課と現地の関東軍司令部との間の様々な軋轢の中ノモンハン事件が拡大し、惨憺たる結末に至る過程を主導したことは疑いのないところである。事件の概略を述べる。

「第一次ノモンハン事件」 1939年(昭和14年)5月4日~5月31日
5月4日国境付近の小競り合いに始まった紛争は、5月15日「国境侵犯行為」となった国境線(ハルハ河)を超えての空襲で、一定の戦果をあげたものの、その後戦術的齟齬による東捜索隊のほぼ全滅という悲劇があったが、5月30日日本軍大部隊の戦場到着により、ソ蒙軍は国境ハルハ河西岸へ後退し、翌31日戦闘はこれで自然と収束した。

「第二次ノモンハン事件」 1939年(昭和14年)6月18日~9月16日
 きっかけは、6月18日、19日のソ連軍の満領への越境空爆であった。この空爆に対し、関東軍作戦課は中央の参謀本部作戦課との間で相当の考え方の違いがあったにも拘わらず、いわば下剋上の形で第23師団と戦車部隊を攻撃主力とする作戦命令が完成、下達された。(6月20日)さらに地上作戦開始にさきだち、国境線とされていたハルハ河西方の外蒙古領内の敵空軍基地爆撃が決行された。(6月27日)このような状況に対して、中央の参謀本部は、国境線の主張の異なるハルハ河東岸に進出し布陣しているソ蒙軍を、あえて撃破撃退しなくてもいい、と命じた。[大陸令(大元帥命令)第320号(6月29日)]しかし、この参謀本部よりの統帥命令は関東軍によって完全に無視された。戦火が拡大することになった。7月に入り、ハルハ河両岸(西岸、東岸)で戦闘が始まったが、西岸(外蒙古領)への侵攻作戦は7月5日2昼夜で挫折、撤退し以後戦闘はすべて東岸で行われた。この失敗につぃて辻参謀の手記を引用する。

「その原因は、敵情の判断を誤ったことである。我とほぼ同等と判断した敵の兵力は、我に倍するものであり、とくに量を誇る戦車と、威力の大きい重砲とは、遺憾ながら意外とするところであった」

「東岸での戦闘」 7月7日~14日
十分な火力(重砲、戦車、飛行機など)をもたない日本軍将兵は夜襲による白兵戦で勇敢に攻撃をつづけた。ソ蒙軍歩兵も必死に戦いぬいた。戦闘はこうして四つに組んだまま敵味方とも連日連夜死力をつくしていた。ここで、第23師団の師団長小松原の日記を引用する。「山県部隊ハ一昨夜夜襲より昨日ノ昼間攻撃ニヨリ、(中略)戦車三四十ヲ破壊シ敵ヲ斃スコト三百ニ及ブ。然レドモ隊モ戦死七十七名、行方不明二十名、負傷百六十名の大損害ヲ受ク」このような状況の下、師団長の「大乗的検地」からの命令で、せっかくの占領地を捨てて攻撃前の位置まで後退する。

「攻撃再興」 7月23日)歩砲協同の総攻撃
この攻撃について次に著書から引用する。
結果は、公刊戦史がいうとおり。「この攻撃は遂に成功を見ることなく終わらざるをえなかった。それは総体的にソ軍の空地両面の火力がはるかに優越し、陣地の組織設備がこのときすでに強靭をきわめていたからである」

(8月20日ソ蒙軍総攻撃開始)(引用)
数百機の編隊による爆撃、つづいてコマツ台地を中心とする砲撃、歩兵の進撃。その展開は74キロに達する。日本軍陣地正面は南北30キロ余であるから、大きく両翼から包みこむような展開をしていた。ソ蒙軍は、日本軍にたいして、歩兵1.5倍、砲兵2倍、飛行機約5倍、戦車・装甲車日本軍ゼロで比較出来ない。ソ蒙軍は平均3倍近くの兵力をととのえて、総攻撃をしかけてきた。たいして日本軍は寡兵のうえあまりにも防禦正面をひろげすぎ(中略)各中隊、各大隊はそれぞれが孤立して、4周から包囲攻撃をうけねばならなくなった。(8月27日頃)広大な戦場にばらばらに散ったそれぞれの陣地で、敵に包囲された態勢下、独力で頑強に戦いつづけてきた日本軍のどの部隊も、このころにはほとんど壊滅しようとしていた。

(8月27日夜)日本軍部隊は壊滅するか、後退につぐ後退で戦線から離脱するか、かなり後方で辛うじて態勢を保持しているかで、完全に駆逐された。戦場のかつての日本軍陣地には赤旗が林立するにいたっている。(8月29日の作戦命令)荻洲第6軍司令官は、最終的に、「ノモンハン付近に兵力を集結し、爾後の攻撃を準備する」ことを決定した。き下全軍にたいする撤退命令の下達である。

(8月30日、大陸命すなわち天皇命令)
参謀本部作戦課が策案したノモンハン事件の作戦終結命令は、天皇の親裁をうけて発せられた。さらに9月3日参謀本部が、関東軍司令官あての参謀総長名の電報で、ノモンハン方面におけるすべての作戦中止(大陸命第349号)を命令。そして9月6日関東軍作戦課の大兵力をそそぎこむ弔い合戦的な最後の決戦計画は、参謀総長名 軍司令官あての電報で空無と化し、事件は完全に終った。
将兵は9月15日現在の線において全軍駐止を命ぜられており、16日午前7時を期し一切の敵対行動を止めよ、という司令部からの指示をうけた。

いかに救いのない死闘があったか
第二次ノモンハン事件にかんして、出動人員58,925人、うち戦死7,720人、戦傷8,664人、戦病2,363人、生死不明1,021人、計19,768人となっている。(第六軍軍医部調整資料)正しくは、第一次事件の損耗、その他の損耗もこれに加えなければならない。ソ連軍の死傷者 戦死6,831人、行方不明1,143人、戦傷15,251人、戦病701人。これに外蒙軍の戦傷者を加えると、全損耗は24,492人になるという。圧倒的な戦力をもちながらソ蒙軍はこれだけの犠牲をださねばならなかった。

ノモンハン事件の概略は以上です。大部分著書からの引用です。もう少し引用したい。
辻正信氏 「眼光炯々、荒法師をおもわせる相貌と本文中に書いたが、笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱きたくなくなるようなそれとなった」(戦後手記)

「(敵が)まさかあのような兵力を外蒙の草原に展開できるとは、夢にも思わなかった。
作戦参謀としての判断に誤りがあったことは、何とも不明の致す所、この不明のため散った数千の英霊に対しては、何とも申し訳ない」 服部参謀の事変感 「ノモンハン事件は明らかに失敗であった。その根本原因は、中央と現地軍との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場に立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のまま、ずるずると拡大につながった点に最大の誤謬がある」   
  
ノモンハン事件以後 服部卓四郎氏は1940年(昭和15年)10月、辻正信氏は翌年7月にそれぞれ参謀本部作戦課勤務となり、この二人のコンビが対米開戦を推進し、戦争を指導した。空恐ろしい歴史です。

半藤一利氏のあとがき
「・・もっと底が深くて幅のある、ケタはずれに大きい「絶対悪」が20世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。かれらにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。
 それほどに見事な「悪」をかれらは歴史に刻印している。おぞけをふるうほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、かれらからみると赤子のように可愛い連中ということになろうか」 ここで著者は、スターリン、ヒットラー、そして服部、辻両参謀を思い浮かべていると推定されます。
著者はさらに、「およそ何のために戦ったのかわからないノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人びとが死に、あっさりと収束した」 これが、巻末の著者の感想であり、首肯出来るところです。もう少しあとがきから引用する。「・・日本陸軍の事件への対応は愚劣且つ無責任というほかはない。・・それほどにこの戦闘が作戦指導上で無謀、独善そして泥縄的であり過ぎた・・勇戦力闘して死んだ人が浮かばれないと思えてならなかった」 まことに同感である。


佐野 清廣
(さの きよひろ)
村上高校第3期生。サラリーマン生活を定年退職後、国家資格であるマンション管理士の資格を取得。
以後その活動を行っている。また、旧制一高の寮歌の集まりの詠帰会(えいきかい)、和楽会(からくかい)のメンバーとして活動。村高同窓会関連では、星和会の共同代表を田仲一成氏(併1回)と勤めている。












筆 者












半藤一利著 ノモンハンの夏











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