郷土の偉人 村上広域情報誌2001








東京東中野にあった長尾半平宅


   
長尾 半平(ながお はんぺい)

 長尾半平という人についてまとめるにあたって、長尾半平という人が多方面にわたって様々な人々と交渉を持った人であったということを感じないわけにはいかない。

第一に、クリスチャンで禁酒主義者であったこと。

第二に、土木技師として港湾の築港や鉄道敷設を行なったこと。

第三に、鉄道の局長また市電の局長として、現場での業務管理を徹底したこと。

第四に、政治家(衆議院議員)として実業家としてである。

また長尾半平という人の人物や生き様をまとめるについては、昭和12年にキリスト教関係の本を主に扱う教文館という出版社から発行された『長尾半平伝(石井満著)』に負うところが大きいが、明治維新以後の近代国家の建設、そして朝鮮・中国への進出という、近代日本の黎明期から発展時期にかけて、時代を担った一人であったことに間違いはないといえる。

さらに、この長尾半平という人物を語るときに、祖伯父である長尾秋水、父である長尾右門についても若干ふれなければならないであろうし、半平の人間形成においてこの二人の影響も大きかったはずである。そして、何よりも長尾半平の人生において、最大の転機は後藤新平との巡り合わせであり、その後の関係であったはずである。



工部大学学生時代
長尾半平  1865〜1936

@1865年(慶応元年)村上藩士長尾右門の長男として、村上堀片で生まれる。

A1879年(明治12年)新潟語学校に入学、同1885年学制改革により廃止。上京して築地英語学校に入学、さらに青山学院で聖書の研究に没頭する。

B1887年(明治20年)大学予備門から工部大学(現東京大学工学部)に進む。


公人としての生き方を貫く
 長尾先生という人は、その経歴からいっても相当の地位を占めることが出来た人である。また、台湾で長く土木局長をしていた関係からいっても、私財を蓄えようと考えれば、相当の富をなすことは合理的に出来たであろう。然るに、いわば清貧の官吏生活に甘んじて居られた、この一点を見ても、先生の人格を知ることができると思う。(『長尾半平伝』より抜粋)



長尾半平筆書
信仰を貫く
 長尾先生は実に堅い信仰の持主であった。そのお祈りの如きも大勢の集会の場合でも、また三度の食卓の時でも、必ず謹厳にいのられたものであります。
また、先生の信仰は、堅い鋭いものであった。同時に非常に戦闘的なものでもあった。『クリスチャンというものは悪いことをしないというだけではいけない、進んで何かをしなければならない、何か良い事をしなければならない』というのが持論であったという。(『長尾半平伝』より抜粋)


@  1898年(明治31年)台湾民生長官として赴任した後藤新平は、先に台湾知事として赴任していた木下周一に、台湾の港湾整備や鉄道敷設を任せられる適当な技術者はいないかと聞いたことに対して、木下は長尾半平を推薦した。
A長尾半平は台湾総督府技師として赴任するとき、後藤新平に欧州各国への視察を要望していた。後藤は長尾が台湾に赴任するとほどなく、充分な待遇をもって洋行させた。

長尾右門 1845〜1915

@1845年(弘化2年)村上藩士児玉伝兵衛(石高百石)の次男として、村上新町で生まれる。

A1849年(弘化4年)長尾長針の養子となり、24歳で長尾家の跡目を相続した。

B明治維新以後、右門は子弟の教育に尽力した。明治18年に大町校と上片町校が合併して村上町校が新築される。その後4代校長として招かれた。明治38年から大正2年までは、村上本町の町長を務める。

C右門は敬虔なキリスト教徒であったが、先にキリスト教徒として洗礼を受けていた息子半平が置いていった聖書を読み、その真理に触れ、自らも強烈な求道者となり、村上のキリスト教の布教に大きな功績を残した。



長尾右門が永眠する
前日に詠んだ句
長尾秋水 1779〜1863

安永8年に生まれる。14歳のとき諏訪因幡守家来久保田元右衛門の養子となるが、久保田家の家風に合わず出奔し、水戸藩の家臣某の家で働き学問を修めたという。文字は上手で、文章は特に漢詩に長けていた。

さらに志を立てて諸方に遊学し、或る時は京都辺を往来し九州のあたりまで行き、或る時は奥羽の各地を歩き、海を渡って松前に至った。このとき松前城下で詠んだ「海城寒折」の詩が最も有名で、現在もその碑が松前に残っている。

  海城の寒折月潮を生す
    波際の連檣影動揺
   此れより五千三百里
  北辰直下銅標を建てん


長尾秋水筆墨竹

日本の鉄道はいい人を得た
        技術官僚としての長尾半平

内務省技師時代(明治25年)頃
@   1891年(明治24年)内務省に入省。

A   仙台土木出張所、熊本土木出張所を経て、1895年(明治28年)山形県土木課長に転任する。当時の山形県知事木下周一は、県議会などにおける長尾半平の答弁ぶりなどは土木屋には不釣合いな鮮やかな弁舌であると高く評価していた。この木下周一に評価されていたことが、その後の長尾の運命を決定づけることになった。


        当時の山形県庁



欧米出張中ベルリン(明治33年)
B  1898年(明治31年)台湾民生長官として赴任した後藤新平は、先に台湾知事として赴任していた木下周一に、台湾の港湾整備や鉄道敷設を任せられる適当な技術者はいないかと聞いたことに対して、木下は長尾半平を推薦した。

C長尾半平は台湾総督府技師として赴任するとき、後藤新平に欧州各国への視察を要望していた。後藤は長尾が台湾に赴任するとほどなく、充分な待遇をもって洋行させた。

       台湾総督府




後藤 新平
1857〜1929・岩手県水沢明治

後藤新平

大正時代の政治家内務省〜台湾総督府(民生局長)〜南満州鉄道初代総裁〜逓信大臣〜鉄道院総裁・内務・外務大臣〜東京市長〜帝都復興院総裁。日本鉄道の父ともいわれている。

後藤新平は長尾半平を評して

1,東京市から逓信大臣の後藤新平に、長尾を東京市に出して欲しいという頼みに対して、「長尾は日本の技術者の中でも、行政手腕のある人間としては第一人者といってもいいほどの大切な人間だからやれない」と断ったという。(田川大吉郎談)
2,「長尾半平という人は実に感心な偉い人である。かつて後藤さんが長尾さんについて、“日本の鉄道はいい人を得た”と言ってほめていた。大蔵省でも長尾が見た書類ですと説明があると金を出すことにした。」(板谷芳郎男爵談)

後藤伯爵と紀州旅行の折

後藤新平と長尾半平

後年、東京市助役などを歴任した田川大吉郎は、長尾君とは、離るべからざる人です。後藤伯と長尾、長尾と後藤伯というものは、全く影の形に添う如き関係で、お互いに相許し合って居ったのです。』と評している。

D1908年(明治41年)後藤新平初代鉄道院総裁に就任する。明治43年長尾は台湾土木局長から鉄道院技師に転任。長尾は自分への餞別等を基にした「長尾奨学資金」を台湾に残す。

鉄道院では業務調査会議副委員長兼鉄道博物館掛長、九州鉄道管理局長、鉄道院理事、中部鉄道管理局長、シベリア鉄道国際管理委員などを歴任したが、この頃は輸送需要の増大、軍部の要望、鉄道国有法により営業距離の増大などを背景に鉄道が飛躍的に発展していく時代でもあった。


F1920年(大正9年)後藤新平は東京市長に就任した。後藤より電気局長就任を懇請された長尾は『お家の一大事とあらば、お引受けする外ありません』と、考えることなく引き受けたという。


Gこの頃の東京市政を、三田二平の新市政といわれた。
東京市長  後藤 新平
助 役    池田 宏
同       永田秀次郎
同       前田多門
電気局長  長尾半平

※東京市電気局は主に路面電車と電灯の業務を行うもので、長尾は勤務方法の改革や運転系統の改正、市バスや急行電車の運行などの実施や計画を行った。



門司鉄道官舎前にて


鉄道院


東京市電気局長時代(大正11年)


大正初年の東京府庁

長尾半平をとりまく人々

夏目漱石
 長尾半平が欧州各国の港湾調査の視察中、ロンドン滞在中に止宿したのは、ロンドン市街の北の高台にあった赤レンガの小じんまりとした2階建の下宿屋であった。

1867〜1916・東京牛込人間の内面を深くほりさげた明治・大正時代の文豪。

1900年(明治33年)文部省から英語研究のため2年間のイギリス留学を命じられる。


漱石のエッセー
『過去の匂い』よりの抜粋

「K君の部屋は美しい絨毯が敷いてあって、白絹の窓掛が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアーが備えつけてある上に、小さな寝室が別に付属している。何よりも嬉しいのは断えず暖炉に火を焚いて、惜しげもなく光った石炭を崩していることである。」
「K君は何でも築港の調査に来ているとか言って、大分金を持っていた。家にいると海老茶の繻子に花鳥の刺繍のあるドレッシング・ガウンを着て、甚だ愉快そうであった。之に反して自分は日本を出たままの着物が大分汚れて、みっともない始末であった。K君は余りだと言って新調の費用を貸して呉れた。」

ミス・マイルドの家
夏目漱石はイギリス留学の2年間のうち、5回ほど下宿を変えているが、1900年11月12日に移り約40日滞在した下宿で、ロンドン滞在中の長尾半平と同宿となり交友を結んでいる。


 半平と漱石は親しく交際していたようで、漱石の日記の中にも、「某日、終日長尾君と話す」とか、「或日、長尾君と散歩す。」又別な日には「パリに於ける長尾君より来信、其の晩長尾君に手紙を書く、借金の為なり。」という記述も出てくる。当時、留学生としてロンドンに来ていた漱石と、公用で出張している半平とでは、旅費等の面でも相当の差があった。それゆえいつでも「夏目君、夕食に行きましょう」と誘った。また、そうして親しくしていた結果、漱石の日記にもある通り、半平が漱石に若干の金を用立てたこともあった。

北大路魯山人
1883〜1959・京都上賀茂
陶芸・書・てん刻・絵画など幅広い分野において創作活動を行う。1919年中村竹四郎と大雅堂美術店を開き、1921年より会員制の美食倶楽部、1925年には星岡茶寮を開いて、自ら料理や食器の演出を行った。
魯山人は大正8年に同郷の中村竹四郎と組んで骨董店「大雅堂芸術店」を開いたが、そこの常連客に出していた料理が評判になり、大正10年に会員制の「美食倶楽部」を設立した。やがて会員数も増え、美食倶楽部では手狭になったため、会員たちの協力のもと「星岡茶寮」が誕生した。


         星岡茶寮

美食倶楽部の常連に長尾半平がいた。魯山人・中村竹四郎とは非常に親しく、よく会合をこの倶楽部で催した。また、この店には半平からの手紙が額にして座敷にかけられていた。

中村竹四郎は、新たな美食倶楽部の建物について、食物というものは、器も大切であり、同時に家がかなり大切な役目を持っている。どうかして美術的な家を手に入れたいと思っており、その家は日枝神社のかたわらにある星岡茶寮のほかにないと思っていた。

 当時の星岡茶寮は神戸の鈴木商店の藤田謙一の持ちものであった。この鈴木商店と後藤新平との関係から、長尾半平に藤田との仲介を依頼した。この星岡茶寮を借りて経営することになるまでには、半平が中村と魯山人と藤田との仲介をしたことが大きな縁となっている。


新渡戸稲造
1862〜1933・岩手県盛岡市
近代日本のすぐれた国際人で教育者。キリスト教徒。女子教育にも取り組み東京女子大学初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任。著書『武士道』は世界的に有名。5000円札の肖像。 長尾半平はその信仰や宗教という面では熱心なキリスト教徒でもあった。
その信仰の道に入る契機ともなったのが、工部大学の近くにあった尾崎家で学生のために毎週開いていた「バイブルクラス」への聴講であった。
この尾崎家へは、工部大学の同期生であった、新渡戸稲造、内村鑑三、志賀重昂、宮部金吾なども出入りしていた。

現在の東京女子大学は、1917年(大正6年)に創立されたミッションスクールであるが、この設立に際しては、駐日米国大使を務めたライシャワー博士の父君で、当時宣教師として明治学院の教授をしていたライシャワー博士と長尾半平が資金を出したものである。


      当時の東京女子大学


浅野総一郎
1848〜1930・富山県氷見
明治・大正時代の実業家明治17年官営の深川セメント工場の払下げを受けそれをもとに海運・造船・埋立などの事業を行い、その後の浅野財閥の基礎をつくった。

台湾時代、キールン築港工事において、莫大なセメントを使用した関係から、浅野は長尾とたびたび会見した。浅野は「長尾という人は、その人物も腕前も、実にしっかりしたものだ」と敬服し、自分の会社で最高の地位をもって遇したいと招いたことがあった。しかし長尾は断っている。
福沢桃介
1868〜1938・埼玉県吉見
明治・大正時代の実業家福沢諭吉の女婿。木曽川や矢作川の調査を進め、日本初のダム式発電所である大井発電所や賎母・読書・桃山などの電力設備を残し、電力王ともいわれた。

 福沢桃介も長尾と親しくしていた実業家の1人で、お互いに信頼し合う関係であったが、在る時福沢が『(自分も)相当の年配になったので、社を退こうと思うが、其の後は、是非あなたにやってもらいたい』と相談したことがあったが、これもあっさりと断ったという。

川上俊彦
1861〜1935・村上市  明治・大正の外交官
東京外国語学校ロシア語科卒業。ウラジオストック、サンフランシスコ領事館などに勤務。
日露戦争では軍司令部付通訳として従軍。旅順攻防戦後の「出師営会見」での通訳としても有名。その後モスクワ総領事・ポーランド公使などを歴任。退官後は日魯漁業社長に就任。長尾半平とは先輩後輩にあたり、かつ姻戚関係にもあった。

写真資料

衆議院議員の頃

銀婚旅行記念

長尾教文館事務室にて

長尾半平のお墓 多磨霊園

YMCA世界大会にて

石井満著 長尾半平傳
教文館発行(昭和12年1月18日発行)


資料作成:村上市郷土資料館
参考文献:石井満氏著 長尾半平伝


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